鳩山一郎(総理大臣、首相)の評価と人物史です。~インベストジャパン
鳩山一郎は戦前、田中義一内閣書記官長、犬養毅内閣の文相、斎藤実内閣の文相などを歴任。戦時中は反軍政治家として生き、東條英機内閣に反発して、一時政界を退いた。
戦後、日本自由党を結成して総裁に就任。総選挙で第一党となって首相指名を待っているとき、GHQ(連合国軍総司令部)から、戦時中に軍国主義台頭に協力したとの理由で公職追放となった。さらに政界復帰間近に脳梗塞に倒れるという不運に見舞われた。
鳩山一郎が公職追放になったとき、日本自由党総裁を継ぎ、首相の座に就いたのが、元外交官、官僚出身の政治家吉田茂だった。
日本自由党総裁を継ぐ際、鳩山一郎の政界復帰の暁には、「総理・総裁」のいすを譲ると約束が交わされた。
だが、日本国憲法公布、サンフランシスコ講和会議、日米安全保障条約締結など、日本の将来を左右する時期にあたっていたため、吉田茂はその座を譲らず、鳩山一郎を「総理・総裁」に推す三木武吉ら、いわゆる鳩山グループと対立することとなる。
いわゆる「バカヤロー解散」などで人気が衰えた吉田茂が退陣し、鳩山一郎はようやく日本民主党総裁、首相に就任する。
吉田は、五次にわたって組閣。第一次内閣と第二次内閣のあいだに、片山哲(日本社会党)内閣、芦田均(民主党)内閣を挟むものの、首相在任通算期間は2616日に及んだ。
第二次内閣時代の1955年(昭和30年)、日本民主党と自由党が保守合同して自由民主党(自民党)が結成され、鳩山一郎は初代総裁に就任する。
このときから保守党である自由民主党と、革新党である日本社会党による二大政党政治、いわゆる「55年体制」が続くことになる。平成5(1993)年に非自民・非共産連立政権、細川護熙内閣が成立するまで維持された。
鳩山一郎が首相になると、世の中は「鳩山ブーム」に沸いた。
しかめっ面で葉巻をくゆらす、どこか貴族然として「ワンマン」と呼ばれた吉田茂と対照的に、明るい庶民的な雰囲気を国民は歓迎した。
鳩山一郎は甘党で、バラの栽培を好んだ。
家庭にあってはときどき癇癪を起こすこともあったが、愛する妻・薫がよく支えた。政界にあっては同志に恵まれていたのも、鳩山一郎の人徳だろう。
外交官から政界入りしたものの、官僚出身者が少なかったため、「吉田学校」という取り巻きを作らなければならなかった吉田茂とは対照的といえる。
首相在任中、鳩山一郎はふたつの偉業を成し遂げた。
吉田茂の、対アメリカ中心の外交から一転し、鳩山一郎は日ソ国交回復を目指し、日ソ共同宣言を成功させ、さらに念願だった国際連合加盟も果たした。
このふたつの偉業を花道に政界を退き、余生は療養生活を送った。
鳩山一郎は、「友愛」を提唱したことでも知られる。
リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの著書『The Totalitarian State against Man』のなかにある「Fraternity」という言葉を「友愛(Yuai)」と訳した。
友愛運動が人格の尊厳に基づき目指すものは、「相互尊重」「相互理解」「相互扶助」。これを友愛三原則という。
この「友愛」思想は、孫の鳩山由紀夫氏(元総理大臣)にも引き継がれた。
▼自民党ヒストリー 「歴代総裁20人の歩み」初代総裁鳩山一郎から、第20代総裁小泉純一郎まで