歴代の東京都知事の評価・評判・一覧です。
| 就任 | 氏名 | 詳細 |
|---|---|---|
| 2016年8月 (3期目) |
小池百合子 | 評判▼ |
| 2014年2月 (1期途中) |
舛添要一 | 評判▼ |
| 2012年12月 (1期途中) |
猪瀬直樹 | 評判▼ |
| 1999年4月 (4期途中) |
石原慎太郎 | 評判▼ |
| 1995年4月 (1期) |
青島幸男 | 評判▼ |
| 1979年4月 (4期) |
鈴木俊一 | 評判▼ |
| 1979年4月 (3期) |
美濃部亮吉 | 評判▼ |
| 1959年4月 (2期) |
東龍太郎 | 評判▼ |
| 1947年5月 (3期) |
安井誠一郎 | 評判▼ |
Hitomi AIによると、都知事選は美濃部亮吉知事の時代までは保革対決の様相だった。しかし、社会党と共産党の共闘が崩れた1987年以後は保革対決色が薄まった。
小池百合子 | 舛添要一 | 猪瀬直樹 | 石原慎太郎 | 青島幸男 | 鈴木俊一 | 美濃部亮吉 | 東龍太郎 | 安井誠一郎 || 総理大臣 歴代ランキング→ | 横浜市長 歴代→
| 人物 | 評価・評判 |
|---|---|
小池百合子(こいけ・ゆりこ)2016年8月~ ※3期目
衆院議員、防衛大臣、環境大臣、キャスター 64歳~ 9人目 |
人を踏み台にしてのし上がってきた権力の亡者。 細川護熙(首相)、小沢一郎、小泉純一郎(首相)、二階俊博(自民党幹事長)、萩生田光一(自民党都連会長)と、時の権力者に媚びを売って擦り寄ってきた。そして、用がなくなると、簡単に捨てた。 所属政党も、日本新党、新進党、自由党、保守党、自民党、希望の党と、節操なく渡り歩いた。 類まれなる嘘つきでもある。「カイロ大学首席卒業」などの虚偽経歴が問題になり、元側近の小島敏郎氏(弁護士)から刑事告発された。 知事就任当初こそ都議会の自民党と対立していたが、途中からすり寄り、2回目の選挙から自民党の支援を受けた。 小池の数々の悪事を暴いたベストセラー本「女帝 小池百合子」で、著者の石井妙子氏は「彼女は『敵』を作り出して攻撃をし、『敵』への憎悪を人々の中にも植え付け、その憎悪のパワーを利用して自分の支持へとつなげていく」と指摘した。 動画 |
舛添要一(ますぞえ・よういち)2014年2月~2016年6月 ※1期途中で辞職
衆院議員、厚生労働大臣、国際政治学者 65~67歳 8人目 |
選挙弁護士の宇都宮健児氏(元・日弁連会長)、元航空幕僚長の田母神俊雄氏、元首相の細川護熙氏らが出馬。激しい選挙戦を展開した。 不祥事で辞職公用車による別荘通いや、政治資金の私的流用などが発覚し、辞職に追い込まれた。 動画 |
猪瀬直樹(いのせ・なおき)2012年12月~2013年12月 ※1期途中で辞職
ノンフィクション作家、東京都副知事 66~67歳 7人目 |
在任期間は1年余りと歴代知事の中で最も短かった。病院チェーン「徳洲会」から資金を受け取った問題の責任を取り辞職した。 政策【失政】都営バスの一部路線の24時間化都営バスの一部路線の24時間化を実行した。しかし、利用客が少なかったため、早々に打ち切りになった。当初はマスコミで話題にはなったが、失政だった。 経歴石原都政で副知事石原慎太郎・知事の3期目と4期目に、副知事を務めた。石原氏の退任にあたり、後継者として指名された。 選挙過去最多の約434万票で当選(投票日:2012年12月)。美濃部氏の記録を破った。 選挙は衆院選と同日に行われた。 不祥事医療法人から5000万円を受け取った問題で、1期目の途中で辞職した。 退任後2014年3月28日、東京地検特捜部は公職選挙法違反の罪で猪瀬を略式起訴した。東京簡易裁判所は罰金50万円の略式命令を出した。5年間公民権が停止された。 参院2022年、日本維新の会の公認候補として参院選(比例区)に出馬し、当選した。 出身校信州大学 出身地長野県飯山市 動画 |
石原慎太郎(いしはら・しんたろう)1999年4月~2012年10月 ※4期途中で辞職
小説家、衆院議員、運輸大臣 66~80歳 6人目 |
強いリーダーシップを発揮した。4回当選。最後の4期目は国政への復帰を理由に約1年半で辞職した。このため、在任期間では鈴木俊一氏に及ばなかった。 就任時の年齢66歳 経歴芥川賞作家。保守政治家として人気を集めた。1995年に衆院議員を辞職していた 政策新しい政策を積極的に打ち出した。 ディーゼル車規制ディーゼル車の排ガス規制を打ち出した。すすの入ったペットボトルを手にしたパフォーマンスで、国や業界にも対応を求めた。 【失政】新銀行東京開業2005年4月、都が1000億円を出資して「新銀行東京」を開業した。貸し渋りに苦しむ中小企業の支援を目指していた。 しかし、ずさんな融資により、開業からわずか2年半で累積赤字は936億円まで膨張した。経営難に陥り、税金400億円の追加出資を余儀なくされた。すなわち、合計で1400億円の税金が投入された。 2018年5月、東京都民銀行及び八千代銀行と合併した。新銀行名は「きらぼし銀行」となった。「石原都政最大の失敗」と言われている。 沖縄県・尖閣諸島の買い上げ計画中国による侵略の脅威にさらされる沖縄県・尖閣諸島を、都が買い上げる計画を表明した。 その他の政策
選挙初当選相手を黙らせられる「こわもてオヤジ」のキャラクターが人気を集めた。 政党の推薦を受けず、自民党や民主党などの推薦を受けた他候補に得票数で約2倍の差をつけて大勝した。 動画 |
青島幸男(あおしま・ゆきお)1995年4月~1999年4月 ※1期
タレント、作家、参院議員 62~66歳 5人目 |
完全な無党派。既成の政党や行政の論理を拒否する形で選ばれた。 経歴人気テレビドラマ「いじわるばあさん」等で超有名なタレント。 放送作家。直木賞作家。参院議員。 政策世界都市博覧会を中止開催予定だった世界都市博覧会を、公約通り中止した。 世界都市博は、前任の鈴木知事の「臨海副都心構想」の総仕上げだった。 開催は1年後に迫っており、準備も進んでいたが、「そんなイベントいらない!」という圧倒的な世論を背景に、キャンセルという英断を下した。 コスモ信組破綻破綻した信用組合への財政支援などが「公約違反」と指摘された。 事業系ごみ有料化事業系ごみの有料化を行った。 バブル開発のツケ臨海副都心開発の収支が悪化した。都職員との協調路線を進めるなかで、臨海副都心の抜本的な見直しには至らなかった。 進めても中止しても巨額赤字が予想された総合競技場「東京スタジアム」建設は、迷った末に着工した。 指導力を発揮できず都市博中止を除くと、指導力を発揮できなかった。「オール野党」にも苦しめられた。 バブル崩壊の影響もあり、赤字財政を残して1期で去った。 選挙鈴木俊一・前知事の後継者として、元官房副長官の石原信雄氏が出馬した。 5つの主要政党が相乗りし、盤石と見られた。しかし、「談合選挙」批判が強まった。 青島氏は世界都市博中止を公約に掲げて立候補。脱政党化の波に乗って、人気を集めた。選挙運動らしい運動をしなかった。 青島氏の得票は約170万票で、石原氏を50万票近く引き離した。無党派層が押し上げた。 当時の日本の政治は、「政治とカネ」の問題による不信やバブル崩壊後の閉塞(へいそく)感が渦巻いていた。 大阪府知事選では横山ノック氏が当選し、無党派層の支持を得た東西の2人が政党の推す候補を破ることとなった。 動画 |
鈴木俊一(すずき・しゅんいち)1979年4月~1995年4月 ※4期
官僚 68~84歳 4人目 |
歴代都知事の中で最長の4期16年を務め、副都心計画など大胆な建設プロジェクトを推進した。 経歴旧自治官僚。東(あずま)都政の副知事。考えられうる限り最高のエリート官僚人生を送ってきた男。自治省の前身の地方自治庁の次長時代を含めた次官8年という鈴木の記録は、今もって破られていない。 1933年(昭和8年)内務省入省。戦後の内務省解体後、最初の自治事務次官となった。次官8年。官房副長官も務めた。日本万国博覧会協会事務総長などを歴任した。 「官僚のエース中のエース」と呼ばれた。副知事時代以来、12年ぶりの都政復帰となった。 副知事時代官房副長官だった1959年、東(あずま)都知事を補佐する副知事に抜擢された。東(あずま)知事の退任後の後継者として有力視された。 しかし、時の総理大臣・佐藤栄作の裁定で、堅実だが地味な鈴木氏は候補から外された。人気革新候補の美濃部の相手には立教大学総長の松下正寿が選ばれた。 大阪万国博の事務総長に転出し、東京オリンピック同様、大成功に導いた。 政策臨海副都心開発新たな一極集中を生むだけという批判をよそに断行された。 基盤整備費を進出企業の負担で全額まかない、一般会計には手をつけないと公約したが、進出企業の相次ぐ辞退で反故となった。根本的に見直しを余儀なくされた。 都庁移転都庁舎の丸の内から新宿への移転を実現した。 大江戸線都営地下鉄「大江戸線」の計画を進めた。(開通の時には退任していたが、計画を推進したのは鈴木知事だった) 財政再建就任した時の都財政は、法でいう赤字限度額を超えていた。 自らの給料の半額を返上し、2万人の余剰人員を削減した1期目に、とりあえずの財政再建に成功した。 バブル路線財政の黒字化を達成すると、新宿や臨海副都心などの開発に力を入れた。 だが、バブル崩壊で税収が大幅に減り、ハコモノ行政で公共施設の維持費もかさみ、再び財政悪化を引き起こした。 ばらまき「大型ハコもの」(公共の建物)を下町中心にばらまき、維持管理が都財政に重くのしかかった。 東京国際フォーラム都心に展示場をつくった。 江戸東京博物館の建設中途半端でつまらない施設だ。 選挙初当選元総評議長の太田薫氏らを破った。12年ぶりに保守が都政を奪還した。68歳だった。 4選1991年に行われた都知事選では、3期目まで鈴木氏を支えていた自民党が反旗を翻した。 時の自民党、公明党、民社党の協力体制を背景に、自民党本部が元NHK記者兼キャスターの磯村尚徳氏を擁立した 一方、自民党の東京都連は鈴木氏を推し、保守分裂選挙となった。 鈴木氏が229万票を集めて磯村氏に80万票以上の大差をつけて当選した。露骨な中央政治の介入が、都民の反発を呼んだ。 80歳で4選を果たした。 政界の最高実力者の一人だった小沢一郎・自民党幹事長(当時)は、引責辞任に追い込まれた。その後、自民党を離党して新生党を立ち上げ、政界再編を引き起こした。 人柄健康づくり雑誌「AERA(アエラ)」の1993年9月28日号の特集記事によると、当時、鈴木知事は眼鏡を必要とせず、入れ歯も1本もなかった。東京・渋谷区松涛の旧松平子爵邸を買いとった知事公館の応接室には、ぶらさがり健康器や青竹ふみ、固定型自転車などの健康器具がところ狭しと並べられていた。ちょっとした健康ジムのようだった。ここで毎朝30分は必ず汗を流した。 4選出馬表明の際には、柔軟体操のパフォーマンスを披露して有権者の喝采を浴びた。 屈伸運動を始めたのは、内務省の同期生が公職追放で巣鴨プリズンに入った時、畳1畳でもできる運動だとすすめたのがきっかけだったという。37歳から始めたこの運動を、1日も欠かさず続けていた。 食生活にも気を配り、根コンブのジュースにクマザサのエキスと抹茶を加えた特製ジュースや、クロレラを常用していた。 生い立ち1910年(明治43年)、東京都昭島市に生まれた。養蚕技師のひとりっ子だった。 秀才学生雑誌「AERA(アエラ)」の1993年9月28日号の特集記事によると、地元の尋常小学校ではずば抜けた成績をあげた。採点した答案用紙に「鈴木俊一という神童ありと認む」と担任教師が書き添えたほどだった。 府立二中(現:立川高校)には一番で合格した。そこを5年を待たず4年で修了。京都の三高に進んだ。高等文官試験は東大法学部の3年に在学中、3番で合格した。 家庭家庭的には恵まれなかった。3歳のとき実母と死別。実母の姉が2番目の母として入ったが、4歳で死別した。 41歳のとき、父親が交通事故で死亡した。府立二中に首席で合格したとき愛用の懐中時計をくれ、三高の試験には京都駅まで見送ってくれた父だった。 父は山形県生まれ。農家の次男坊だった。正規の学校に入りたくても入れない環境に育った。それだけに、子供にはきちんとした教育をつけさせたいと思っていたようだ。 父は東京府の役人でもあったという。あるとき父の書類の宛先に、『東京府知事殿』と書いてあるのを見てた。幼心に「いつか大きくなったら」という思いを抱いたという。 動画 |
美濃部亮吉(みのべ・りょうきち)1967年4月~1979年4月 ※3期
経済学者 63~75歳 3人目 |
革新都知事。福祉や公害の問題で国政に先んじた。 全国に革新自治体を生み出す原動力になった。特に女性に人気を博した。 経歴マルクス経済学者。直前まで東京教育大学(現筑波大学)教授だった。 マルクス経済学者で前東京教育大教授の美濃部は、「天皇機関説」で知られる憲法学者達吉の長男。 NHKの「やさしい経済教室」で解説者を務め、「美濃部スマイル」で人気があった。 政策「東京に青空を」「生活防衛」を掲げ、福祉と環境で大胆な政策を実行した。都民対話・参加を掲げた。 高齢者医療費無料化福祉の法律の対象を広げる「横出し」条例を制定した。それによって、都独自に高齢者医療費の無料化を実現した。国が1973年に老人医療費の無料制度を始める契機となった。 高齢者の都営交通も無料化した。 公害公害条例の制定を行った。国より厳しい基準を課す「上乗せ」と呼ばれる条例で対策を強化した。 東京電力などと公害防止協定を結んだ。 公害条例の制定に取り組んだ。 無認可保育所への運営費補助1968年4月、無認可保育所への運営費補助を始めた。 公選区長復活当時、都内23区の区長は、選挙で選ばれる「公選」ではなかった。議会が選んだ区長を都知事が同意する仕組みだったが、区長選を復活させた。 公営ギャンブル廃止東京都が主催する公営ギャンブル廃止した。 1969年1月24日、都が主体になっていた「競輪」「競馬」「競艇」「オートレース」の4ギャンブルを廃止すると表明した。 「ギャンブルは社会公害。公害除去は都の重要課題だ」と理由を語った。 ただ、廃止ではなく、競馬や競艇は「区」など他の主催団体が肩代わりした。実際に閉鎖されたのは、東京都が単独で胴元となっていた後楽園競輪と大井オートレースだけだった。 後楽園競輪場はジャンボプールに改装され、後に「東京ドーム」になった。 児童手当創設1969年12月、児童手当制度を創設した。国の反対を押し切って実現させた。 老人医療費の無料化制度と同時だった。外部の人材を起用
道路整備の遅れ東京外郭環状道路(外環道)の整備が遅れた。 石油危機で財政悪化石油ショックで都税収入が落ち込むと、都財政は窮地に陥った。 都庁の人件費も膨張したが、労働組合の支持を受ける革新都政では公務員のリストラは困難だった。 退任直前の78年度、都は単年度で1011億円の赤字という財政危機に陥った。 社共対立社会党と共産党を中軸とする革新勢力の不協和音が表面化した。 学界からの転出1967年(昭和42年)、学究生活から政治の世界に飛び込んだ。美濃部氏は「当選よりも、私が出馬することで、ファシズムの進行に歯止めがかけられれば……」と語っていた 選挙初当選1967年、ベトナム戦争が泥沼化していく中で、当選した。 社会党と共産党が共闘した。 自民、民社推薦の松下正寿(前立教大総長)と、公明推薦の阿部憲一(創価学会理事)に勝利した。 初の革新知事が誕生した。 1967年(昭和42年)の選挙は東知事の下で副知事を務めた鈴木俊一氏を推す動きもあった。 2選1971年には保守陣営は元警視総監の秦野章氏を擁立した。 同氏の陣営ではキャンペーンを広告代理店に依頼するなどイメージ選挙のさきがけともいえる選挙戦を展開したが、美濃部氏には及ばなかった。 この時、投票率も72.36%と史上最高となった。 同じ日(統一地方選)に大阪府知事選では、同じく社会党、共産党推薦の黒田了一氏が初当選した。現職を破った。 東京、大阪、京都の知事を革新系が押さえた。 美濃部氏はこの選挙で、国政選挙と地方選挙を通じ個人の最多得票となる約361万票を獲得した。 保守系候補に170万票近い差をつけた。地滑り的勝利だった。 地方政治での革新ブームはこの時がピークだった。 美濃部氏は「ストップ・ザ・サトウ」というスローガンを掲げた。長期政権を続ける佐藤栄作首相を標的にして、票を集めたのだった。 3選1975年4月13日、都知事に3選。269万票。石原慎太郎候補は234万票 芥川賞作家から参院議員、衆院議員を経て出馬した当時42歳の石原氏らを破り3選を果たした。 退任美濃部都政の終えんと前後して、いわゆる革新自治体は沖縄、大阪、京都、横浜などで次々に姿を消していった。 評価官僚の専門的思考よりも、住民の素人として柔軟な発想を重視する政治姿勢が評価されている。 企業に厳しい公害対策や福祉重視対策を断行した。「陽の当たらぬ人たち」への思いやりは、見習うべきだ。 動画 |
東龍太郎(あずま・りゅうたろう)1959年4月~1967年4月 ※2期
医学者 66~74歳 2人目 |
上下水道や地下鉄建設など都市基盤整備に力を尽くした。五輪誘致を看板に据えた。 経歴医学者。スポーツ医学の権威だった。 東京大教授。茨城大学の学長も歴任。厚生省医務局長を務めた。 スポーツと関わりが深かった。日本体育協会会長も務めた。IOC(国際オリンピック委員会)委員だった。 政策東京五輪に向け、首都高速や地下鉄などのインフラ整備を加速させた。人口増や産業の集積が進んだ。 五輪東京都は1964年夏季五輪を目指していた。東氏氏は、就任翌月の1959年5月にミュンヘンで開かれたIOC総会で勝利した。 五輪成功に向けて渉外に駆け回った。復興建設の高度成長初期日本を象徴する存在だった。 副知事の鈴木俊一氏(後に知事)に実務面を堅実にやらせた。 開発のひずみ開発のひずみも浮かび上がった。住宅難、学校不足、大気汚染といった問題が浮上した。 学校群制度導入多摩ニュータウン決定 |
安井誠一郎(やすい・せいいちろう)1947年5月~1959年4月 ※3期
官僚 56~68歳 1人目 |
戦後の初代公選知事。 経歴元内務官僚。厚生次官 東京都長官を務め、終戦直後の1947年に就任した。 政策緊急課題である戦災復興に取り組んだ。住宅建設や交通整備などを進めた。 中央とのパイプ物不足の解消が課題だった。中央とのパイプの太い内務省出身らしさを発揮した。 「夢を語るより、都民を飢えから守るのが知事の責務」と考えた。自ら東北などの生産県へ「米行脚」に行った。東京への供出に頭を下げて回った。 復興首都の復興整備を指揮した。1950年に始まった朝鮮戦争の特需景気で都心部は建設ラッシュに沸いた。 人口は急増。終戦時に300万人だった東京の人口は1952年には700万人に達した。「首都圏」整備構想も打ち出した。 職員の汚職3期目には公共事業に絡む汚職事件で職員らが次々と逮捕されるなど腐敗が目立った。 集権的システム知事中心の集権的システムを形成。「都庁一家主義」と称された。 選挙1回目それまでは天皇・内務大臣から任命される官吏だった知事から、初めて都民の直接選挙で選ばれた。 戦後初の公選として1947年に統一地方選が実施される。第1回の都知事選は、それまで官選の都長官だった安井誠一郎氏と、社会党が推す田川大吉郎氏との戦いとなった。安井氏は保守系無所属だった。 2回目、3回目1951年(昭和26年)の選挙で社会党の加藤勘十元労相、1955年(昭和30年)には同じく社会党が担いだ有田八郎元外相を破った。 退任後国政(衆院)に転じた。 |