山中竹春 | 林文子 | 中田宏 | 高秀秀信 | 細郷道一 | 飛鳥田一雄 | 歴代の総理大臣ランキング→ |

代次 名前と就任期間 功績、略歴など
9人目

山中竹春

(やまなか・たけはる)

2021年8月~

山中竹春

動画(当選後のスピーチ)→

【選挙】

野党から出馬し、当選した。 立憲民主党の推薦を得たほか、共産党からも全面的な支援を受けた。 カジノ反対運動の人たちも応援した。

菅首相の不人気が追い風

横浜市政に絶大な影響力を持っていた現職総理大臣の菅義偉(すが・よしひで)氏(自民党、横浜選出)がコロナウイルス対策で失敗を重ねるなかで、「打倒・菅政権」を願う無党派層の票を集めた。

若さと顔の良さで勝利

選挙演説などは極めて薄っぺらい内容だったが、顔の良さと年齢的な若さ(48歳)が利点となった。

【経歴】

立候補するまでは、横浜市立大学に所属する学者だった。専門は統計学。

「コロナの専門家」という虚偽

学者として医学部に在籍していたことから、選挙では「コロナの専門家」を名乗った。 しかし、実際には医学部を出ておらず、医者ではない。むろん、コロナの専門家ではない。

売名王子

それどころか、本物の医者たちの地道な研究結果を、あたかも自分の成果であるかのようにメディア等に売り込むことを得意とする人物だということが明らかになった。コロナ渦においても同様の手法を使い、テレビ露出に成功していた。医学界を冒涜する「売名王子」だ。
参考:動画→

恫喝(パワハラ)事件

さらに、選挙中に、大学の取引業者等に対して恫喝(パワハラ)を行っていたことが発覚した。
参考:動画→

8人目

林文子

(はやし・ふみこ)

2009年8月~
2021年8月

(3期)

林文子

動画(選挙の演説)→
3期務めたが、 目立った実績が少なかった。 強引なカジノ誘致で市民の信頼を失った。 役所の窓口などでのサービスの質は、 林市長時代に改善されたとの声もある(ただし、それが市長のリーダーシップに起因するものかどうかは、定かではない)。

【経歴】民間企業の出身。もともとは自動車の営業として実績を重ね、とくに欧州車のセールスで成功。 ダイエーや日産の役員を経て、市長に立候補した。

【選挙】最初の選挙では民主党候補として出馬し、自民党の候補を破った。しかし、市長就任後、自民党寄りに変わった。
2期目にカジノ誘致に乗り出したものの、3期目の選挙では突如「カジノは白紙」と公約した。しかし、当選後に再び態度を一転させ、計画を推進した。これによって、市民からの評価が急落した。 4選を目指して出馬したものの、惨敗を喫した。

【失政】
  • ・中学校給食を導入しなかった。給食のかわりに、希望する生徒に弁当を配達する事業を始めた。通称「ハマ弁」。 しかし、この弁当は生徒に極めて評判が悪かった。味がマズかったからだ。注文する人がほとんどおらず、失敗に終わった。
  • ・自分の趣味であるオペラを鑑賞できる巨大劇場の建設計画を進めた。 すでに横浜市内には類似の施設が複数存在しているため、明らかに税金の無駄づかいであった。
  • ・歴史的価値のある市役所の旧庁舎(関内)を、破格の安値で民間企業に売却した。
  • ・菅義偉首相(自民党、横浜選出)の言いなりになった。
  • ・「花博」という時代遅れのイベントの開催を決めた。
  • ・「カジノ反対」という圧倒的多数の住民の声を無視し、強引にカジノ事業を推進した。
  • ・コロナウイルスのワクチン接種が遅れた。(とくに50代以下が遅かった)
  • ・市の財政を悪化させた。

【実績】
保育園の待機児童の数を一時的に減少させた。ただし、「待機児童」以外に「保留児童」という新しい区分けを作り、あたかも待機児童が少ないかのように見せかけた。
7人目

中田宏

(なかだ・ひろし)

2002年4月~
2009年8月

(2期途中で辞任)

中田宏

動画→
改革派の市長。 古い利権政治の打破に挑み、一定の成果をあげた。 市の借金を減らし、財政状況を改善させた。

【経歴・背景】横浜生まれ。大学卒業後に松下政経塾に入塾。 1992年の衆院選において、旧神奈川1区から出馬した。 後に首相となる細川護煕氏率いる日本新党の公認候補だった。 新党ブームの追い風を受けて、20代で国会議員となった。

【市長選挙】3回の衆院当選を重ねた後、横浜市長選に出馬した。 相手候補は、自民党、公明党、民主党などが相乗りで推す現職の高秀氏。 支持政党なしの「純粋無所属」として挑んだ。 当初は圧倒的に不利と見られていたが、「多選批判」「オール与党批判」を背景に、奇跡的な当選を果たした。 37歳という若さだった。

【実績】
  • ・高秀市長時代に膨れ上がった借金を削減。財政状況を大幅に改善させた。
  • ・いわゆる利権(既得権益)にメスを入れ、利益誘導型の政治を断ち切った。
  • ・市を影で牛耳っていた有力者や長老たちとも対決。 その報復を受ける形で、週刊誌に捏造記事を書かれるなど様々な誹謗中傷を受けた。 しかし、裁判で正々堂々と闘い、完全勝訴。身の潔白が証明された。 週刊現代やライターの青木理(おさむ)らの捏造が裏付けられた。(参考動画→
    なお、一連のでっち上げ報道を仕掛けたのは、市会議員として数々の利権を握っていた太田正孝(磯子区選出)だった。
    参考:著書「政治家の殺し方」→
  • ・市役所の職員に付与されていた様々な手当を削減した。 不明朗な給与体系を透明にした。
  • ・日産自動車の本社を、横浜に誘致することに成功した。
  • ・黄金町(こがねちょう)の売春街を撲滅させた。 その結果、暴力団などにも恨まれるようになった。 怪文書や中傷が飛び交うようになった。 しかし、それでも改革の手を緩めず、黄金町を「アートの町」として再構築させた。
  • ・市の施設の命名権(ネーミングライツ)による収入を大幅に増やした。例えば「日産スタジアム」など。

【失政】
二期目に「開国博」という大規模イベントを開催した。しかし、人が集まらず、失敗に終わった。 巨額の赤字を出した。 その非難から逃げるかのように、任期途中で突如辞任した。
6人目

高秀秀信

(たかひで・ひでのぶ)

1990年4月~
2002年4月

(3期)

高秀秀信
中央官僚出身。落下傘候補として横浜にやってきた。

【選挙】最初の選挙は、自民党や公明党の推薦で立候補した。社会党公認候補を破って初当選した。

【開発優先の市政】
バブル経済の崩壊が始まった1990年4月に横浜市長に就任した。 しかし、その市政運営は、戦後の高度経済成長の発想を引きずっていた。「開発優先型」の市長として、みなとみらい地区などでのハコモノ行政を熱心に進めた。 その結果、市の借金が膨らみ、財政再建という課題を残した。

【経歴】
北海道大学の工学部卒。1952年に旧建設省(国土交通省)に入った。技術者としてダム建設や河川工事などを担当し、役所トップの事務次官まで上り詰めた。その後、水資源開発公団総裁も務めた。要するに、戦後の国土開発のエリートの中のエリートだったのだ。

プレナス投資顧問によると、自ら「市民工学屋」を自称し、実務に精通していた。下水道整備や防災行政などにも手腕を発揮した。

サッカーのワールドカップ(W杯)決勝を誘致した。落語や大道芸など大衆芸能専門ホールの「横浜にぎわい座」を開くなどした。

開発型行政が評価される一方で、市の借金総額は約5兆円に膨らんだ。

4選を目指した2002年3月の市長選では、自民、公明、社民、保守、連合神奈川というオール与党体制の推薦を受けた。 ところが、多選と高齢、多党相乗りに対する風当たりが強く、新人の中田宏氏に敗れた。

選挙後には、票のとりまとめに関する現金授受事件が発覚。側近だった前市長室長や元青葉区長が公職選挙法違反の疑いで逮捕された。後に横浜地裁で有罪判決を受けた。

2002年8月29日朝、食道静脈瘤(りゅう)破裂で73歳で急死した。死の直前の8月26日まで家族で北海道旅行をしていたという。

【実績】
横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)建設
5人目

細郷道一

(さいごう・みちかず)

1978年4月~
1990年2月

(3期途中で死去)

細郷道一
中央官僚出身。旧自治省(現:総務省)事務次官。

【選挙】1期目は、飛鳥田市長の後継者として出馬した。保守・革新6党の相乗りの支持を受け、当選した。3期目の任期途中で死去した。

長洲一二・神奈川県知事が唱えた「地方の時代」に対し、「市町村の時代」を掲げた。東京のベッドタウンとして全国第2位の大都市に膨れ上がった横浜の自主性、求心力の復権を目指した。

飛鳥田時代の構想を発展させた。横浜ベイブリッジを建設、横浜臨港部の再開発地域「みなとみらい(MM)21」には国立国際会議場の誘致も決めた。開発のPRとして横浜博覧会も開催した。

【プロフィール】
1915年(大正4年)11月、横浜市生まれ。東大法学部卒業後、1942年(昭和17年)に内務省(現自治省)へ、戦後は自治省に移り、1969年(昭和44年)に自治省事務次官。退官後、飛鳥田一雄元市長の招きで横浜駅東口開発公社理事長に就任し、その後、公営企業金融公庫総裁に転出した。飛鳥田元市長が社会党委員長に転身した後、共産党を除く保守、中道、革新各党相乗りの推薦を受け、1978年(昭和53年)4月から市長連続3期。

1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)に下腹部のポリープを摘除した。1989年11月、右足付け根のリンパ節にはれが見つかり再入院した。入院・治療が長引く見通しとなったことから、1989年12月下旬、1990年4月に予定される市長選に出馬しないことを表明した。

1990年2月15日、心不全のため、東京都文京区の東京大学病院で死去した。享年74歳だった。
【実績】
みなとみらい地区への国際会議場誘致
4人目

飛鳥田一雄

(あすかた・いちを)

1963年4月~
1978年3月

(4期途中で辞任)

動画→

飛鳥田一雄
衆院議員を経て、 1963年(昭和38年)に現職市長を破って当選した。4期15年間務めた。

企業より市民優先の市政を打ち出した。全国の革新自治体の顔となった。「全国区」市長として知られた。1万人の市民集会などを実施。その取り組みが評価され、市長の任期途中で社会党委員長に転じた。

また、港北ニュータウンや横浜ベイブリッジなど6大事業が、当初は「無理だ」といわれながらも、横浜発展の柱として結実した。先見性のある「アイデア市長」としても評価された。

その一方、下水道や道路などの都市基盤整備はやや遅れたとの指摘もある。

革新ぶりを最初に発揮したのは、市長就任翌年の1964年の市議会で紛糾した「1万人市民集会」問題。市民の生の声を直接聞いて市政に反映させようという直接民主主義の考えに基づいていた。市長選挙の公約にもされていた。

野党の自民党など4会派は「市議会軽視につながる」と集会開催に反発。自民党の議員らは、飛鳥田さんと市長公舎で3日間やり合ったが、互いに譲らなかった。結局、集会の予算案は野党の反対多数で否決された。

飛鳥田さんは「否決されても市民に直接民主主義を知ってもらえればいい」とその後も3回集会案を提案した。実際に開催されたのは市長2期目の1967年10月になってからだった。

同集会は結局2回開かれた。ごみの問題など、身近な問題が多かったことなどから、その後1974年からは区民会議へと形を変えた。この会議は細郷、高秀市政を通じて今でも存続した。形がい化の声はあるものの飛鳥田さんの住民参加の姿勢が受け継がれた。

飛鳥田さんのこうした住民参加の姿勢は住民の反対運動への対応でもうかがえた。同市として初めて温水プール付きの市民還元型ごみ焼却場、旭工場が1973年に完成した。

この建設をめぐって住民からは「公害が出る」と、激しい反対運動が起きた。このとき、飛鳥田さんは地元の説明会に自ら足を運び、「もし煙突からハエでも出たら僕が工場を壊してやる」と、ユーモアを織り交ぜながら住民を説得、拍手を浴びた。

急増するごみ対策に追われる職員からは早く着工をとの声が出たときも、「少し頭を冷やせ」と指示した。その間に住民との根回しをし、住民側と和解することができた。

その後できたごみ焼却工場では反対運動がほとんど起きなかった。横浜市が苦しいながらも他都市に比べて比較的恵まれたごみ処理施設を持っていることにつながった。

【プロフィール】
1915年(大正4年)横浜市に生まれ、明治大学大学院修了後、1939年(昭和14年)に高等文官試験司法科に合格、弁護士として法曹界入り。終戦直後の1945年昭和20年11月の社会党結党に参加。横浜市議、神奈川県議を経て1953年(昭和28年)、神奈川一区から衆院議員に初当選後四期連続当選した。この間、1960年(昭和35年)の日米安保条約改定問題で国論を二分した「安保国会」では、石橋政嗣前社会党委員長らとともに、政府を厳しく追及、勇名をはせた。派閥的には、左派の平和同志会に属した。

その後、「地域民主主義の確立」を掲げ、1963年(昭和38年)、横浜市長となり、4期15年間務めた。

【国政への復帰】横浜市長時代の1977年(昭和52年)12月、参院選敗北の責任をとって退陣した故成田知巳氏に代わり第八代委員長に就任した。1979年(昭和54年)秋の総選挙で東京一区から衆院議員として返り咲き、二期連続当選した。党員による委員長選挙制を導入、また公明党との連合政権構想に合意。1979年(昭和54年)秋には、現職委員長として初の訪米を実現した。

しかし、徐々に党内左右両派の対立が激化、1982年(昭和57年)の党大会では書記長人事をめぐる混乱から左派中心の執行部の編成を余儀なくされる場面もあった。結局、1983年(昭和58年)夏の参院選敗北の責任をとり、5年8か月にわたる委員長の座を石橋氏に譲るとともに、政界引退を表明した。以後は、弁護士活動を続ける一方、日中友好、護憲運動に取り組んでいた。

1987年(昭和62年)夏にジン臓病を悪化させ、入院。1990年10月11日午前8時9分、脳コウソクのため、神奈川県鎌倉市大町の額田記念病院で死去した。享年75歳。
3人目

半井清

(なからい・きよし)

1959年4月~
1963年4月

(1期)

半井清
2人目

平沼亮三

(ひらぬま・りょうぞう)

1951年4月~
1955年2月

(2期途中)

平沼亮三
1人目

石河京市

(いしかわ・きょういち)

1947年4月~
1951年4月

(1期)

【選挙】

社会党は、前回総選挙での躍進を背景に社会民衆党以来の長年の市議・県議の石河京市を擁立し、この頃深刻の度を増していた食糧不足を反政府の大衆運動に転化させ大々的な選挙キャンペーンを展開していた。 こうした民主的潮流を背景に1947年3月14日共産党と横浜市長選挙での共闘がなり、今回の市長選挙は「保守か民主かの一線を画する」ものと位置づけられた。

これを受けて1947年3月15日、飯田助夫は小此木ら自由党幹部を訪問した。 その結果自由党進歩党は「一元化」して山崎擁立が決定した。 山崎次隆は、東京帝大を卒業後1927年横浜市に入った。 当時の有吉市長は、管理職などの任用に学歴と経歴を重視して内外の人材を集め、市吏員の「専門官僚制」への道を開いたといわれる。 山崎もそうした人材の一人で、半井時代に財務部長、交通局長から第二助役へと昇進し、半井市長の補佐役として行政手腕を高く評価されていた。 長年の「協調市政」体制の支持者であった飯田は、社共統一戦線の成立をみて山崎に反対だった党内をまとめ、自由党との提携に転じさせ「保守陣営の確立」を進めた。 こうして横浜市長選は、「保守」と「民主」の対決というかつてない構図になった。

1947年4月5日の市長選挙の得票率は、それぞれ45.4%、43.6%という僅差で石河が当選、横浜市政に社会党市長が誕生した。 この選挙結果を各区別にみてみると、得票の分布は社会党(石河)は鶴見、神奈川、西、南、保土ヶ谷、戸塚各区で優勢である。 鶴見区、神奈川区、西区は大工場地帯、保土ヶ谷区、戸塚区は中規模工場地帯、南区は零細工場地帯とされ、これに対し自由・民主党(山崎)が優勢であった中区、磯子区、港北区は、旧都心部および郊外農村部であった。 社会党は工場地帯の組織労働者に基盤を持っていたことがうかがえる。

参照元・関連記事:Hitomi AI