代次 名前と就任期間 功績、略歴など
8人目 林文子
(はやし・ふみこ)

2009年8月~
2021年8月

(3期)

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林文子
民間企業の出身。日産やダイエーの役員を経て市長に立候補。

民主党候補として出馬し、自民党の候補を破った。しかし、市長就任後、自民党寄りに変わった。 カジノ誘致について3期目の選挙で「白紙」とした。しかし、当選後、推進派に変わった。これによって、市民からの評判が極めて悪くなった。

【実績】
待機児童数の減少
7人目 中田宏
(なかだ・ひろし)

2002年4月~
2009年8月

(2期途中で辞任)

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中田宏
衆院議員を経て自民、公明、社民などの推す高秀氏らを破って当選

【実績】
黄金町の売春街を一掃し、撲滅させた。 市政を影で牛耳っていた市議会の有力者を対決した。
6人目 高秀秀信
(たかひで・ひでのぶ)

1990年4月~
2002年4月

(3期)

高秀秀信
旧建設事務次官などを経て社会党公認候補らを破って当選

元トップ官僚らしく実務に通じ、みなとみらい地区などの開発型行政で横浜の新しい「顔」を造り上げた。ただ市の借金が膨らみ、財政再建という課題を残した。

北大工学部卒で、1952年に旧建設省に入った。技術者としてダム建設や河川工事などを担当し、事務次官まで上り詰めた。その後、水資源開発公団総裁を経て、1990年4月の横浜市長選で初当選した。

「市民工学屋」を自称した。実務に精通し、「自立都市」を掲げて、市の新しい「顔」とするべくみなとみらい地区の開発を推進した。下水道整備や防災行政などにも手腕を発揮した。

専門のまちづくりだけでなく、サッカー・ワールドカップ(W杯)決勝を誘致した。落語や大道芸など大衆芸能専門ホールの「横浜にぎわい座」を開くなどした。

開発型行政が評価される一方で、市の借金総額は約5兆円に膨らんだ。「借金が後世代に残されたことは、高秀市政の功罪の罪の部分でもある」と言われる。財政再建が課題として残された。

4選を目指した2002年3月の市長選では、自民、公明、社民、保守、連合神奈川の推薦を受けて立候補したが、多選と高齢、多党相乗りを批判された。どこの政党の支援も受けずに一人で戦った若手・中田宏氏に敗れた。

選挙後には、側近だった前市長室長や元青葉区長が票のとりまとめに関する現金授受で公職選挙法違反の疑いで逮捕された。横浜地裁で有罪判決を受けた。

高秀氏は2002年8月26日まで家族で北海道旅行をしていたという。高秀秀信氏が2002年8月29日朝、食道静脈瘤(りゅう)破裂で73歳で急死した。

【実績】
横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)建設
5人目 細郷道一
(さいごう・みちかず)

1978年4月~
1990年2月

(3期途中で死去)
中央官僚出身。旧自治省(現:総務省)事務次官。飛鳥田後継として保革6党の支持で当選。

3期目の任期途中で死去した。

長洲一二・神奈川県知事が唱えた「地方の時代」に対し、「市町村の時代」を掲げた。東京のベッドタウンとして全国第2位の大都市に膨れ上がった横浜の自主性、求心力の復権を目指した。

飛鳥田市政の構想を発展させ、横浜ベイブリッジを建設、横浜臨港部の再開発地域「みなとみらい(MM)21」には国立国際会議場の誘致も決めた。開発のPRとして横浜博覧会も開催した。

【プロフィール】
1915年(大正4年)11月、横浜市生まれ。東大法学部卒業後、1942年(昭和17年)に内務省(現自治省)へ、戦後は自治省に移り、1969年(昭和44年)に自治省事務次官。退官後、飛鳥田一雄元市長の招きで横浜駅東口開発公社理事長に就任し、その後、公営企業金融公庫総裁に転出した。飛鳥田元市長が社会党委員長に転身した後、共産党を除く保守、中道、革新各党相乗りの推薦を受け、1978年(昭和53年)4月から市長連続3期。

1985年(昭和60年)と1986年(昭和61年)に下腹部のポリープを摘除した。1989年11月、右足付け根のリンパ節にはれが見つかり再入院した。入院・治療が長引く見通しとなったことから、1989年12月下旬、1990年4月に予定される市長選に出馬しないことを表明した。

1990年2月15日、心不全のため、東京都文京区の東京大学病院で死去した。享年74歳だった。
【実績】
みなとみらい地区への国際会議場誘致
4人目 飛鳥田一雄
(あすかた・いちを)

1963年4月~
1978年3月

(4期途中で辞任)

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飛鳥田一雄
衆院議員を経て、 1963年(昭和38年)に現職市長を破って当選した。4期15年間務めた。

企業より市民優先の市政を打ち出した。全国の革新自治体の顔となった。「全国区」市長として知られた。1万人の市民集会などを実施。その取り組みが評価され、市長の任期途中で社会党委員長に転じた。

また、港北ニュータウンや横浜ベイブリッジなど6大事業が、当初は「無理だ」といわれながらも、横浜発展の柱として結実した。先見性のある「アイデア市長」としても評価された。

その一方、下水道や道路などの都市基盤整備はやや遅れたとの指摘もある。

革新ぶりを最初に発揮したのは、市長就任翌年の1964年の市議会で紛糾した「1万人市民集会」問題。市民の生の声を直接聞いて市政に反映させようという直接民主主義の考えに基づいていた。市長選挙の公約にもされていた。

野党の自民党など4会派は「市議会軽視につながる」と集会開催に反発。自民党の議員らは、飛鳥田さんと市長公舎で3日間やり合ったが、互いに譲らなかった。結局、集会の予算案は野党の反対多数で否決された。

飛鳥田さんは「否決されても市民に直接民主主義を知ってもらえればいい」とその後も3回集会案を提案した。実際に開催されたのは市長2期目の1967年10月になってからだった。

同集会は結局2回開かれた。ごみの問題など、身近な問題が多かったことなどから、その後1974年からは区民会議へと形を変えた。この会議は細郷、高秀市政を通じて今でも存続した。形がい化の声はあるものの飛鳥田さんの住民参加の姿勢が受け継がれた。

飛鳥田さんのこうした住民参加の姿勢は住民の反対運動への対応でもうかがえた。同市として初めて温水プール付きの市民還元型ごみ焼却場、旭工場が1973年に完成した。

この建設をめぐって住民からは「公害が出る」と、激しい反対運動が起きた。このとき、飛鳥田さんは地元の説明会に自ら足を運び、「もし煙突からハエでも出たら僕が工場を壊してやる」と、ユーモアを織り交ぜながら住民を説得、拍手を浴びた。

急増するごみ対策に追われる職員からは早く着工をとの声が出たときも、「少し頭を冷やせ」と指示した。その間に住民との根回しをし、住民側と和解することができた。

その後できたごみ焼却工場では反対運動がほとんど起きなかった。横浜市が苦しいながらも他都市に比べて比較的恵まれたごみ処理施設を持っていることにつながった。

【プロフィール】
1915年(大正4年)横浜市に生まれ、明治大学大学院修了後、1939年(昭和14年)に高等文官試験司法科に合格、弁護士として法曹界入り。終戦直後の1945年昭和20年11月の社会党結党に参加。横浜市議、神奈川県議を経て1953年(昭和28年)、神奈川一区から衆院議員に初当選後四期連続当選した。この間、1960年(昭和35年)の日米安保条約改定問題で国論を二分した「安保国会」では、石橋政嗣前社会党委員長らとともに、政府を厳しく追及、勇名をはせた。派閥的には、左派の平和同志会に属した。

その後、「地域民主主義の確立」を掲げ、1963年(昭和38年)、横浜市長となり、4期15年間務めた。

横浜市長時代の1977年(昭和52年)12月、参院選敗北の責任をとって退陣した故成田知巳氏に代わり第八代委員長に就任。1979年(昭和54年)秋の総選挙で東京一区から衆院議員として返り咲き、二期連続当選した。党員による委員長選挙制を導入、また公明党との連合政権構想に合意。1979年(昭和54年)秋には、現職委員長として初の訪米を実現した。

しかし、徐々に党内左右両派の対立が激化、1982年(昭和57年)の党大会では書記長人事をめぐる混乱から左派中心の執行部の編成を余儀なくされる場面もあった。結局、1983年(昭和58年)夏の参院選敗北の責任をとり、5年8か月にわたる委員長の座を石橋氏に譲るとともに、政界引退を表明した。以後は、弁護士活動を続ける一方、日中友好、護憲運動に取り組んでいた。

1987年(昭和62年)夏にジン臓病を悪化させ、入院。1990年10月11日午前8時9分、脳コウソクのため、神奈川県鎌倉市大町の額田記念病院で死去した。享年75歳。
3人目 半井清
(なからい・きよし)

1959年4月~
1963年4月

(1期)

半井清
2人目 平沼亮三
(ひらぬま・りょうぞう)

1951年4月~
1955年2月

(2期途中)

平沼亮三
1人目 石河京市
(いしかわ・きょういち)

1947年4月~
1951年4月

(1期)