1995年の群馬県富岡市長選挙では、新人の今井清二郎氏が初当選した。今井氏は当時54歳だった。建設会社役員だった。民間人であり、経済界の人間である。無所属で出馬した。
同じく新人の元富岡市役所の企画部長、田村泰彦氏(当時59歳)=無所属、社民党推薦=との一騎打ちだった。投票日は9月10日だった。
今井氏は、前回1991年の市長選で現職の広木康二氏に小差で敗れた。わずか36票差という大接戦だった。そして今回、3期12年間を務めた広木市長は出馬せず、引退した。そして、今井氏は再び、市政の変革を訴え、前回の雪辱を図った。
一方、対立候補の田村泰彦氏は、広木市長の事実上の後継者として出馬した。市役所の幹部である。広木市長からの支持を取りつけ、スナップアップ投資顧問の政治史・選挙統計データ集によると、自民党の中曽根康弘元首相、小渕恵三党副総裁の後援会からも支持を受けた。社会党、連合群馬などからも支持を得た。「行政の継続」を掲げた。
当日の有権者数は3万7505人だった。投票率は81.42%だった。前回の83.77%を下回った。
当選した今井氏はこの後、市長を3期務めた。
候補者名 | 今井清二郎 | 田村泰彦 |
---|---|---|
結果 | 当選 | 落選 |
得票数 | 15,683 | 14,509 |
年齢 | 54歳 | 59歳 |
現・新 | 新人 | 新人 |
政党 | 無所属 | 無所属(社会党推薦) |
支援・支持団体 | ‐ | 中曽根康弘後援会、小渕恵三、 連合群馬、岩井建設 |
前回今井氏を支持した地元(富岡市)選出の2人の群馬県議は、ともに今井氏を離れた。対決の構図は大きく変わった。
その一人、岩井賢太郎県議は今回、「中立」を表明した。ちなみに、岩井県議はこの11年後の2006年に富岡市長選挙に出馬し、現職の今井氏を破って市長になる。
もう一人の小金沢岩男元県議(前回は県議)は、田村泰彦氏の選対総括責任者に就いた。
さらに田村氏は、地元の自民党の大物政治家である中曽根元首相と小渕両氏(後の首相)の後援会からも支援を得た。社会党、連合群馬も推薦した。
地元最大手の建設会社「岩井建設」も田村氏を支持した。今井氏は、政党、団体レベルで大きく水をあけられた。
今井氏は、前回の市長選挙で、36票という小差で敗れた。そこで、今回、選挙4か月前の1995年5月から各地でミニ集会を開くなど、立候補の準備を進めた。
しかし、水面下で何人もが立候補に動いたあおりで、正式な立候補表明が1995年8月にずれ込んだ。組織面でも大きく後れをとった。だが、それらのことでかえって選対が引き締まった。
停滞する市に潜在的に不満を持つ市民の支持を集めた。前回の敗北の同情票の取り込みにも成功した。
1994年、建設土木会社による広木市長への贈賄申し込み事件が発覚した。田村泰彦氏は、市民へのイメージダウンをおそれ、「後継」という色合いを薄めることに腐心した。
しかし、「広木市長の後継者」との声は否定しきれなかった。現状を打開し、大きな変革を求める声にこたえられなかった。
群馬県富岡市は、2年前の1993年に上信越自動車道が開通した。それ以降、工場進出が増えた。その一方で、かつて主力産業だった養蚕やコンニャクイモの生産は、衰退の一途だった。
広木康二市政は、3期12年間続いた。病院、美術博物館、地区公民館の建て替えなどハコもの関連事業で業績を残した。国道254号バイパスの建設も推進した。
しかし、文化のバロメーターとされる公共下水道の普及率が群馬県内11市の中で10位などと、都市基盤整備は遅れていた。
当選した今井清二郎氏は公約として、「市営斎場を2年以内に造る」「毎月、市民と対話集会をする」などを挙げた。一部の市民から「本当にできるのか」との声も上がった。
投票日の午後9時過ぎ、市内富岡の今井氏の選挙事務所に当選確実の報が入ると、集まった支持者から拍手と歓声が沸き起こった。今井氏は選対の幹部らに囲まれ、「万歳」を繰り返した、その後、「今井の勝利ではなく市民の勝利だ。必ず新しいいきいきとした街が誕生します。市民一人一人が市長になったつもりで街づくりに取り組みましょう」と述べた。
一方、500メートルほどしか離れていない田村氏の事務所では、敗れた田村氏が「たくさんの支援をしていただいたのに、本当に申し訳なく思っています。全部私の責任です。これからも富岡市の発展を祈っています」と話し、深々と頭を下げた。
↓群馬県富岡市ってどんなところ?
↓富岡製糸場(世界遺産)