歴代の首相(総理大臣)の評価ランキング

順位 名前と在任期間 功績、略歴など
1位 池田勇人(はやと)

1960年7月~
1964年11月

池田勇人

【動画】
<新年の挨拶↓>
政治イデオロギーでなく、経済を重視する路線を敷いた。 国内の過度な政治闘争を沈静化させるとともに、 「所得倍増計画」を掲げて国民の勤労意欲を浮揚。長期的な経済成長へと引っ張った。

就任当初に日本の経済成長率の目標を、大胆にも「年平均9%」に設定した。 官僚たちは「5%が現実的」と主張したが、押し切った。 結果は、目標を上回る高成長を達成した。

岩戸景気が終わると、 間髪入れず東京五輪に向けたインフラ整備を断行。 新幹線や高速道路などの予算を大盤振る舞いし、 景気の腰折れを防いだ。

金融政策においては、成長を優先させるべく「低金利」路線を貫いた。 インフレを警戒して金利引き上げをしようとした日本銀行を何度もおさえつけ、金融緩和を持続させた。 時代の流れを読みながら経済を巧みに運営するセンスと知力は、戦後リーダーの中で突出していたといえる。

金融市場からも好まれた。 選挙で圧勝した後の第二次池田内閣の発足時には、 日経平均株価が14連騰を達成。 現在も歴代2位の最長記録となっている(参照→)。

産業政策の面では、重工業が発展していた京浜、中京、阪神、北九州の4地域の周辺エリアに、 鉄鋼や石油化学コンビナートなどを次々とつくり、 一体的な巨大工業ゾーンとして結んでいく「太平洋ベルト地帯」を提唱。 民間の設備投資を引き出した。

大蔵省(現財務省)の官僚出身。とはいえ、もともとは超エリートというわけではなかった。 学歴が徹底的に重視された戦前・戦中の官僚制度において、東大ではなく京大卒だったのは入省後に不利に働いた。 さらに、20代で激痛を伴う難病を患い、5年間にわたって療養・闘病生活を送った。いったんは退職を余儀なくされた。

病気から立ち直ると日立製作所に就職するが、再び大蔵省からお声がかかり、再入省を果たす。 地方の税務署で並外れた実務能力と辣腕ぶりを発揮し、税収アップに貢献。 実力で本省の税務局長までのし上がった。 さらに戦後、民間出身の異色の蔵相・石橋湛山に能力を買われ、大蔵官僚トップの事務次官に昇格した。

退官後、地元の広島から衆院議員に出馬する。 当時の吉田首相は、有力な官僚出身者を次々と政界へと引き入れており、 池田もその一環だった。 吉田率いる民主自由党の候補として初当選。 いわゆる「吉田学校」の主要メンバーとなる。

選挙後に発足した第3次吉田内閣でいきなり大蔵大臣に大抜擢された。 大蔵官僚時代のずば抜けた実務能力を、大臣としてもいかんなく発揮。 米政府の経済顧問ジョセフ・ドッジと厳しい交渉を繰り返しながら、 インフレ抑制や税制改革などの政策を具現化した。

1960年、岸内閣が「日米安保反対」の大規模デモに見舞われ、安保改定と引き換えに退陣したのを受けて、総理に就任。 首相就任にあたり、「今までのように野党と対決するという力ずくの政治は改め、『忍耐と寛容』の精神で議会政治をもり立てていきたい」と述べた。前任の岸首相の強権的な手法からの大転換を打ちだしたのだ。

もともとは「貧乏人は麦食え」などの放言癖のある剛直な人物だったが、総理になってからは「低姿勢」に変身。 労働運動を主導していた総評などの幹部との定期協議も始めた。

資本主義と経済自由主義を強く信じていた。 国民が経済的に豊かになることで世相が明るくなり、政治も安定し、世界における地位も向上する、というのが持論だった。

総理大臣の重要な役割の一つは、国の風土を国民にとって有益な方向へと導くことであろう。 その意味で、戦後期の日本を「政治の季節」から「経済の季節」へと転換させた功績は大きい。

首相在任中に癌になり、病院で治療を受けた。すでに進行しており、1964年東京オリンピックの後に退陣した。 その翌年、65歳で死去した。
2位 吉田茂

1946年5月
1947年5月

1948年10月~
1954年12月

吉田茂

【動画】
<肉声(日本独立のための平和条約受託の演説)↓>

サンフランシスコ平和会議での英語挨拶→
太平洋戦争の敗戦翌年に首相に就任。通算7年2カ月務めた。

戦後日本の在り方を規定した3つの最重要文書すべてに深くかかわった。 1946年の日本国憲法の制定に、外相(幣原内閣)さらに首相(第一次内閣)として関与。 1951年のサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約には、首相(第三次内閣)として、大きな役割を果たした。

とりわけサンフランシスコ講和条約では、優れた元外交官としての経験や先見の明が生かされた。 講和条約により、連合国による占領から抜け出し、独立国として躍進する土台ができた。 ソ連や中国を含めた「全面講和」でなく、 アメリカなど資本主義諸国との「単独講和」の道を選んだのは、 保守政治家として当然とはいえ、 国論が二分していたことを考えると、 大きな功績。

占領軍を指揮するマッカーサー元帥(米国)と巧みに渡り合ったことも、高評価のポイントとされる。 元帥が神格化されても、物おじせずに対応。 米国側が求めた新憲法や象徴天皇制を受け入れながら、 国家独立を回復するために様々な手段や策を尽くしたのだった。

基本ポリシーは「軍事は軽武装、外交は経済重視」。 ダレス国務長官が来日して再軍備を要請したときも、退けた。 表向きには新憲法9条を理由としたが、 何より経済の再建を重視させたいのが本心だったとされる。

こうしたなか、吉田が提案したのが米軍の駐留方式だった。 米国が日本を守り、日本は米国を守らない。 その代わりに日本が基地を提供し、それをアメリカは日本防衛以外の目的にも使用できる。 こうして誕生した日米安保体制は、戦後日本の発展にとって極めて好都合な環境をもたらした。

戦後の社会不安で日本が揺れるなかで、 初めて長期政権を実現した点も見逃せない。 5回にわたる組閣などで権力を行使して「ワンマン」と呼ばれたが、 混乱期から脱するには強いリーダーシップが不可欠だった。

池田勇人、佐藤栄作ら有能な元官僚たちを次々と主要ポストに起用し、 将来を担うリーダーへと育てた功績も大きい。 池田に関しては、 初当選でいきなり大蔵大臣に大抜擢。 密使として米国で独立交渉にあたらせた。 このほかにも党執行部や党長老に相談せずに大胆な人事を次々と断行。 孤高を貫いた。

外務省の官僚(外交官)出身。 もともと欧米との協調を重視しており、 戦時中は、ドイツ寄りの主流派と距離を置いた。 その一方で、満州政策では強硬論を唱えていた。

太平洋戦争中に終戦工作を企てたが、1945年4月、憲兵隊に察知されて逮捕、投獄された。 こうした経緯もあり、 極端な右翼や旧陸軍の連中を心から嫌っていた。 戦後の日本は左翼勢力が増長し、それに対抗するべく右翼が頭をもたげる素地があった。 しかし、吉田は政権の周辺に右翼や旧陸軍を寄せ付けなかった。
3位 佐藤栄作

1964年11月~
1972年7月

佐藤栄作

【動画】
<沖縄返還↓>

退任会見→
約8年の長期政権を無難にこなし、高度経済成長を持続させた。

就任当時、日本経済は東京五輪の後の不況の危機にあった。 いわゆる「昭和40年不況」である(参照→)。 佐藤はこれを積極的な財政出動による公共事業で乗り切り、1970年まで続く「いざなぎ景気」へと導いた。

岸信介・元首相の実の弟。 鉄道省(運輸省、現在の国土交通省)の官僚出身。

米国からの沖縄返還を実現させた。 首相就任から9か月後の1965年に沖縄を訪れ、返還に意欲を表明した。 政権の命運を賭した政治的な意思表示だった。 政権末期の1972年5月、「核抜き本土並み」で沖縄の復帰を成し遂げた。 1974年にノーベル平和賞を受賞した。
4位 中曽根康弘

1982年11月~
1987年11月

中曽根康弘

【動画】
<TVインタビュー↓>

人生まとめ(TBS)→
国鉄(現JR)、電電公社(現NTT)、日本専売公社(現・日本たばこ)の民営化を成功へと導いた。 とりわけ労働組合や族議員が抵抗していた国鉄の民営化については、 強力なリーダーシップを発揮した。

外交・安全保障では、 米国のレーガン政権との協調を強め、 日米関係を強化した。

その一環として、防衛力の強化にも取り組んだ。 防衛予算をGNPの1%以下に抑えるという枠も撤廃した。 レーガン政権は敵国・ソ連を追い込み、 長年の冷戦を終結へと導くことになるが、 そのレーガン大統領の盟友として国際的に認知された。

経済・金融面では、日米貿易摩擦の解消という狙いもあって、 円高ドル安を是認した。
5位 小泉純一郎

2001年4月~
2006年9月

小泉純一郎

【動画】
<会見(郵政解散)↓>

半生まとめ(TBS)→
「改革派」の首相。 自民党内の守旧派の反発を押し切り、 長年の持論だった郵政民営化を断行した。 また、道路公団などの特殊法人の改革も行った。 公共事業の削減にも取り組んだ。

バブル崩壊以降、10年にわたって日本経済の足を引っ張っていた不良債権問題を解決へと導いた。 学者だった竹中平蔵氏を経済・金融政策チームの中枢に据え、 国内の銀行が抱えるゾンビ企業向け融資の整理を推進。 産業構造の転換に向けた種をまいた。

日本の経済システムに残っていた談合的な体質を改め、透明性の高い競争社会づくりに取り組む小泉・竹中コンビの姿勢は、 世界からも高く評価された。

何よりも、真の経済活力は役所の机や役人の頭の中から生まれるのでなく、民間の切磋琢磨から生まれるという単純な事実を、よく理解しているリーダーだった。

閣僚や党役員の人事においては自民党党内の派閥の力学を軽視。 実力重視の人選を行った。その結果、能力の高い人物が長期間にわたって留任するという潮流を築いた。 その一環として、若き安倍晋三氏を腹心として重用し、 事実上、首相後継として育てた。

在任期間中に、米ブッシュ政権がイラクに対して戦争を開始した。 この戦争は正当性が欠如しており、 国際的に批判を浴びたが、 小泉氏は早々と「支持」を表明。 日本の外交の主体性の弱さを印象づけた。

対中政策も成果があがらず。 独裁国家・中国に利益や技術を垂れ流す大企業を野放しにした。 自らの靖国参拝によって反日運動の口実を与え、その沈静化のために大切な外交パワーをさかれた。 東シナ海のガス田開発問題でも押されまくった。

せっかくブッシュ米大統領と仲良くなったのだから、 中国共産党の危うさを米国側に説得し、 野放図な膨張に歯止めをかけるべきだった。
6位 三木武夫

1974年12月~
1976年12月

三木武夫

【動画】
<記者会見↓>
汚職事件で田中角栄首相が辞任に追い込まれた後、椎名悦三郎・自民党副総裁の裁定で総裁に指名された。

「諸悪の根源は政治資金がかかりすぎることにある」との持論から、政界浄化に取り組んだ。 政治資金規正法、公職選挙法の改正を実現した。 同時に、ロッキード事件の徹底究明を求め、田中元首相を逮捕に追い込むなど、「クリーン三木」をいかんなく発揮した。

財界が反対する独占禁止法の強化にも挑んだ。

安全保障では、ハト派の立場を貫いた。1971年に三木内閣が決定した防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠は、中曽根内閣が1987年度予算で枠を突破するまで10年余りの間、防衛費の歯止めとなった。

戦前の軍国主義の全盛時代、日米不戦を訴えた。 戦時中の1942年の国政選挙では、大政翼賛会の非推薦で立候補。軍部ににらまれ、厳しい弾圧を受けながらも、当選を果たした。
7位 安倍晋三

2006年9月~
2007年9月

2012年12月~
2020年9月

安倍晋三

【動画】
<会見(TPP参加表明)↓>

米オバマ大統領との演説(真珠湾)→
2度にわたり首相に就任。1回目は短命に終わったが、2回目に驚くべき長期政権を実現し、戦後の最長記録を達成した。 トップが短期間でめまぐるしく替わるという日本政治の悪しき流れを断ち切り、 国家運営の安定性と一貫性を取り戻した。

憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にするという、安全保障政策の大転換を行った。 その手法は極めて強引だったが、その後の国際政治の現実をふまえれば大きな功績だったといえる。

外交面での能力と実績は秀逸。 自民党が下野していた間に弱まった日米同盟を修復したのは当然として、 戦後リーダーとして初めて世界をまたにかけた高度な自主外交を展開した。

何よりも、中国の覇権主義に対抗すべく、 アジア・太平洋地域の自由主義諸国の結束を呼びかけ、 「日米豪印戦略対話(クアッド)」などの具体的な成果を残したのは大きい。 米国のトランプ政権も、その後のバイデン政権も、安倍氏の路線に乗っかることとなった。

世界のリーダー層からの信頼度は抜群だった。 ただ、対ロシア外交では独裁者プーチンにすり寄り過ぎたとの批判が多い。

外交や安保に比べると、経済政策は停滞気味だった。 日本銀行を異次元レベルの金融緩和へと突っ走らせ、 市況回復ムードを演出したところまでは良かった。 しかし、消費税を5%から10%へと倍増させ、実体経済の足腰を弱らせた。

経済改革の意欲は持っていたが、発想が古臭かった。 財界に対する一律の賃上げ要請や官製投資ファンドの肥大化など、 護送船団的な政策が目立った。 「究極の経済オンチ集団」として知られる経済産業省の役人たちの意見を聞き過ぎたのが痛かった。

それでも、米国抜きでの自由貿易協定「環太平洋パートナーシップ」(TPP)など、 難しい課題をコツコツと片付けたのは事実。 行動力とバイタリティに満ちた「仕事師」であったことは間違いない。

やたらと選挙に強かった。2度目の総裁就任以降は、国政選挙で全戦全勝(6戦連勝)。 政権の中枢を菅義偉(すが・よしひで)官房長官ら側近で固めたうえで、人事権や意思決定権を首相官邸に集約させた。 各省の官僚や主要マスコミをおとなしくさせるほどの強権支配だった。

警察や検察も安倍氏の絶対的な権力に屈服。 準強姦容疑で逮捕状が出ていた安倍氏の友人(山口敬之)が、寸前で逮捕を逃れるという事件も起きた。

カルト系宗教団体(旧統一教会)と緊密になるなど、 目的のためには手段を選ばない姿勢は禍根を残した。 杉田水脈(みお)のような差別主義者の連中とも仲が良すぎた。

2020年、コロナウイルス感染拡大で一気に支持率が急落。激務で体調を崩したとして急きょ辞任した。 その後も、自民党内の最大派閥のトップとして強い影響力を発揮。 とりわけ外交分野では比類なき指導者としての活躍を期待する声も多かった。

しかし、2022年7月の選挙応援演説中、旧統一教会信者の家族に銃撃され、無念の最期を迎えた。 享年67歳。

学習能力の優れた政治家であっただけに、 生きていれば、政策や人間力に磨きをかけたうえで3度目の首相就任を果たした可能性は高かったのではないか。惜しまれる。
8位 鳩山一郎

1954年12月~
1956年12月

鳩山一郎

【動画】
<日ソ協定↓>
ソ連との復交を求めてモスクワに赴き、日ソ共同宣言に調印。国交を復活させた。 その後、国連加盟も実現させた。

自由党と民主党を合併し、自由民主党を結成。自ら初代総裁に就任した。単一保守党の自民党が安定多数を占め、社会党と対立する「戦後55年体制」を築いた。

吉田ワンマンのあと待望の首相に就任。6年間の吉田長期政権にうんざりしていた国民に歓迎された。 ただ、首相に就任したときには既に健康問題を抱えており、 本来の能力を十分に発揮できなかった。

戦前、田中義一内閣書記官長、犬養毅内閣の文相、斎藤実内閣の文相などを歴任した。 戦時中も国会議員だったが、軍部独裁には抵抗していた。東條英機内閣に反発して、一時政界を退いた。
9位 岸信介

1957年2月~
1960年7月

岸信介

【動画】
<会見(改造内閣発足時)↓>

無声映像→
親米路線を明確にし、日米安保改定に尽力した。 「反共産主義」を前面に掲げ、 前任の首相たち(鳩山一郎、石橋湛山)のソ連、中国への接近路線を修正した。 親米路線は、その後の首相に引き継がれ、 戦後日本の安定の基盤となった。

戦前、有力な商工官僚としてファシズム国家の建設を主導した一人である。 軍部と協力して「国家統制経済」の制度化に邁進した。 満州でも統制経済を指揮した。 また、日米開戦に踏み切った東條内閣の閣僚でもあった。 敗戦後、A級戦犯として拘置所に入った。

吉田、鳩山、石橋ら戦後歴代首相は、いずれも太平洋戦争に批判的だった。 しかし、岸は違っていた。 戦後も全体主義的な思考を引きずっていたと批判されている。

政治手法も強権的だった。 警察官による国民への取り締まり権限を強化する警職法改正を突如、提案した。 だが、自民党内の反発で廃案に追い込まれた。

その一方で、 最低賃金法や国民年金法を成立させるなど、弱者保護的な社会政策にも力を入れた。

圏外

圏外 田中角栄

1972年7月~
1974年12月

田中角栄

【動画】
<中国訪問↓>

街頭演説→

ロッキード事件で逮捕→
中国との国交正常化を実現した。(同時に、台湾とは断交した)

全国の地方を工業化する「日本列島改造」を掲げ、 公共投資を拡大。 道路や鉄道網の整備が進んだ。 その一方で、地価高騰とインフレを招いた。

日本の国土を「開発」するという点において、 党幹事長などの時代を含め、 後世に大きな影響を与えた。

金で政治を動かす「金権政治」「利益誘導政治」の風土を強めた。 退任後に汚職で逮捕され、有罪判決を受けた。

【参考】
歴代首相物語」(編:御厨貴)
歴代首相 (知れば知るほど) 」(小林弘忠・著)



松野頼三元衆院議員が選んだ20世紀の内閣ランキング

2000年12月

順位 首相 主な業績など
吉田茂 講和条約と憲法作成
鳩山一郎 日ソ国交回復
佐藤栄作 沖縄返還
岸信介 日米安保改定
細川護煕 8党派の連立政権
三木武夫 田中後の政界刷新
池田勇人 経済立国の土台つくる
田中角栄 日本列島改造
森喜朗 小渕病死後の政権
10 村山富市 47年ぶり社会党政権

戦後の内閣・吉田茂首相がダントツ

松野頼三・元衆院議員(当時83歳)が2000年、戦後の総理大臣をランク付けした。

松野氏は日本国憲法を作るなど戦後の日本を再建した吉田内閣を1位に挙げた。

吉田茂氏は1946年(昭和21年)の第1次吉田内閣で日本国憲法を公布してから、1953年の第5次まで通算7年2カ月も首相を務めた。1963年に政界を引退した後も「弟子」の池田勇人、佐藤栄作両氏らを通じて、政界に隠然たる力を持ち続けた。

松野氏はその吉田内閣を「ダントツの存在感」と評した。「米国占領下で国内政策を着実に行い、サンフランシスコ平和条約を締結、日本国憲法も作った。敗戦日本の再建に尽くした」と最大級の評価をした。

吉田氏は人物としても、非常に優れていたという。「頑固一徹で信念に生きた人。私心がまったくない人だった。私心がないから、国民の人気なんか気にしないで、自分の描いた国家の青写真を実行に移せた。結果からみると、彼の志向した日本に間違いはなかった」と言い切った。

吉田氏とともに戦後日本の土台を築いたのが鳩山一郎氏。鳩山内閣は、日本と旧ソ連の国交を回復し、日本民主党と自由党の保守合同を成し遂げた「保守安定政権の開祖」で、1955年11月に自由民主党を結成した。「この2人は絶対的な存在。後に総理となった佐藤栄作も岸信介も、2人の基盤の上に業績を重ねただけ」と話す。歴代内閣ベスト10をピックアップしていくと、ほとんどが時系列通りになった。「時代背景も関係するが、政治家が小粒になってきたことも理由に挙げられるのではないか」と解説する。

松野頼三(まつの・らいぞう)

1917年(大正6年)2月12日、熊本県生まれ。83歳。慶大法学部卒。吉田茂元首相の秘書官を務め、1947年(昭和22年)総選挙で初当選。通算15期。総理府総務長官、労相、防衛庁長官、農相を歴任。自民党役員としては政調会長、総務会長をつとめた。1990年(平成2年)に引退後も、政界の参謀・ブレーン役を演じた。民主党の松野頼久衆院議員は長男。

歴代首相の人気ランキング(朝日新聞のアンケート調査)

2009年9月

順位 名前 票数 略歴、解説
田中角栄 780票 愛称は「角さん」。「目白の闇将軍」とも呼ばれた。「日本列島改造論」を唱えたが、金脈問題で退陣(1972年7月~1974年12月)
吉田茂 717票 葉巻を好んだ「和製チャーチル」。サンフランシスコ講和条約に調印。議会で「バカヤロー」発言(1946年5月~1947年5月、1948年10月~1954年12月)
小泉純一郎 576票 派閥に染まらぬ「変人」。スローガンは「自民党をぶっ壊す」。2005年の総選挙では「抵抗勢力」に刺客を送った(2001年4月~2006年9月)
三木武夫 447票 金権政治や政党政治の浄化を訴え、「クリーン三木」と呼ばれた。激しい倒閣運動「三木おろし」で総辞職に追い込まれた(1974年12月~1976年12月)
佐藤栄作 279票 情報収集力で「早耳の佐藤」、人心掌握術で「人事の佐藤」と言われた。沖縄返還を実現。連続在任7年8カ月は最長記録(1964年11月~1972年7月)
池田勇人 232票 所得倍増論を唱え、高度経済成長政策を推進。がんのため東京五輪の直後に辞任(1960年7月~1964年11月)
中曽根康弘 214票 国鉄、電電公社などを民営化。米国との関係を強めたが、「日本は浮沈空母」発言も(1982年11月~1987年11月)
村山富市 209票 社会党委員長を務め、自社さ連立政権で首相の座に。日米安保、自衛隊を容認(1994年6月~1996年1月)
石橋湛山 181票 東洋経済新報社の元社長。言論人から政界へ入り、誰に対しても物おじしない発言をした。 病気のため、わずか71日で引退を表明した。(1956年12月~1957年2月)
10 細川護煕 138票 日本新党の党首を務め、非自民連立政権で首相に。旧熊本藩主細川家の子孫(1993年8月~1994年4月)

最も評価していない首相(朝日新聞のアンケート投票)~2009年9月

順位 名前 票数
宇野宗佑 1195票
麻生太郎 714票
森喜朗 555票
安倍晋三 547票
小泉純一郎 542票
福田康夫 218票
村山富市 98票
田中角栄 76票
細川護煕 69票
10 岸信介 57票

<調査の概要>
朝日新聞の無料会員サービス「アスパラクラブ」のウェブサイトで2009年8月の総選挙前にアンケートを実施。戦後の歴代首相30人の中で「最も評価している人」「最も評価していない人」(いずれも単一回答)を尋ね、4343人から回答を得た。


読売新聞のネットモニター調査(2006年)

2006年9月

戦後の歴代首相の中で誰を評価するか(複数回答)

順位 首相 評価
吉田茂 44%
小泉純一郎 41%
田中角栄 36%
中曽根康弘 30%
佐藤栄作 25%
池田勇人 18%
岸信介 13%
三木武夫 12%

「角栄」抑えて「小泉」2位

読売新聞社の「ポスト小泉」に関する第3回ネットモニター調査で、戦後の歴代首相の中で誰を評価するか(複数回答)を聞いたところ、戦後の混乱期にリーダーシップを発揮した「吉田茂」が44%で最も多かった。現職の「小泉純一郎」が41%で2位。3位はロッキード事件で逮捕されたものの、実行力と庶民性で人気の高い「田中角栄」の36%だった。

吉田元首相については、在任中に日本の進路として選択した「軽武装・経済重視」路線が現在の日本にとって良かったかを聞いたところ、72%が「そう思う」と答えた。こうした点が高い評価につながったようだ。性別や年齢別に見ると、男性や高年齢層で「吉田茂」がトップ。一方、女性や若年層は小泉首相を挙げる人が最も多かった。