歴代の首相(総理大臣)の評価ランキング

順位 名前と在任期間 功績、略歴など
吉田茂

1946年5月22日~
1947年5月24日

1948年10月15日~
1954年12月10日
敗戦の翌年に首相に就任。日本を占領していたアメリカと、うまいことやった。 米国の求める新憲法や象徴天皇制を受け入れつつ、 独立の座を回復するために尽力した。 その過程で、占領軍を指揮するマッカーサー元帥と渡り合った。

戦後の社会不安で日本が揺れるなかで、 長期政権を実現。 5回にわたる組閣などで権力を行使し、 「ワンマン」と呼ばれた。

外務省の官僚(外交官)出身。 もともと欧米との協調を重視しており、 戦時中は、ドイツ寄りの主流派とは距離を置いていた。

ソ連や中国を含めた「全面講和」でなく、 アメリカなど資本主義諸国との「単独講和」の道を選んだ。
池田勇人(はやと)

1960年7月19日~
1964年11月9日
イデオロギーでなく、経済を重視する路線を敷いた。 「所得倍増計画」を掲げ、戦後の日本経済を高度成長へと引っ張った。

大蔵省(現財務省)の官僚出身である。大蔵次官まで上りつめた後、政界に転出。 吉田内閣のときに、当選1回にもかかわらず大蔵大臣に抜擢された。

資本主義や経済的な自由主義を強く信じていた。 大蔵大臣のときの国会答弁では「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような経済の原則のほうへもって行きたい」と明言した。

首相在任中に癌になり、病院で治療を受けた。すでに進行しており、1964年東京オリンピックの後に退陣した。 その翌年、65歳で死去した。
中曽根康弘

1982年11月27日~
1987年11月6日
国鉄(現JR)、電電公社(現NTT)、日本専売公社(現・日本たばこ)の民営化を成功へと導いた。 とりわけ労組や族議員が抵抗していた国鉄の民営化については、 強いリーダーシップを発揮した。

外交・安全保障では、 米国のレーガン政権との協調を強め、 日米関係を強化した。 その一環として、防衛力の強化にも取り組んだ。 防衛予算をGNPの1%以下に抑えるという枠も撤廃した。 レーガン政権は敵国・ソ連を追い込み、 長年の冷戦を終結へと導くことになるが、 そのレーガン大統領の盟友として国際的に認知された。

経済・金融面では、日米貿易摩擦の解消という狙いもあって、 円高ドル安を是認した。
佐藤栄作

1964年11月9日~
1972年7月7日
約8年の長期政権を無難にこなし、高度経済成長を持続させた。

就任当時、日本経済は東京オリンピックの後の不況の危機にあった。 これを積極的な財政出動による公共事業で乗り切り、1970年まで続く「いざなぎ景気」へと導いた。

岸信介・元首相の実の弟。 鉄道省(運輸省、現在の国土交通省)の官僚出身。

米国からの沖縄返還を実現させた。 首相就任から9か月後の1965年に沖縄を訪れ、返還に意欲を表明した。 政権の命運を賭した政治的な意思表示だった。 政権末期の1972年5月、「核抜き本土並み」で沖縄の復帰を成し遂げた。 1974年にノーベル平和賞を受賞した。
小泉純一郎

2001年4月26日~
2006年9月26日
「改革派」の首相。 自民党内の反発を押し切り、 長年の持論だった郵政民営化を断行した。 また、道路公団などの特殊法人の改革も行った。 公共事業の削減にも取り組んだ。

バブル崩壊以降、10年にわたって日本経済の足を引っ張っていた不良債権問題を解決へと導いた。 学者だった竹中平蔵氏を経済・金融政策チームの中枢に据え、 大手銀行が抱える過剰債務企業向け融資の削減などに邁進した。 日本の経済システムに残っていた談合的な体質を改め、透明性の高い競争社会をつくろうとする小泉・竹中コンビの姿勢は、 海外の識者からも評価された。

閣僚や党役員において党内の派閥の力学を軽視。 能力のある人物は、長い期間にわたって留任させた。

在任期間中に、米ブッシュ政権がイラクに対して戦争を開始。 正当性を欠く開戦であり、 国際的に批判を浴びたが、 小泉氏は早々と「支持」を表明。 日本の外交の主体性の弱さを印象づけた。

若き安倍晋三氏を腹心として重用し、 事実上、後継首相として指名した。
三木武夫

1974年12月9日~
1976年12月24日
汚職事件で田中角栄首相が辞任に追い込まれた後、椎名悦三郎・自民党副総裁の裁定で総裁に指名された。

「諸悪の根源は政治資金がかかりすぎることにある」との持論から、政界浄化に取り組んだ。 政治資金規正法、公職選挙法の改正を実現した。 同時に、ロッキード事件の徹底究明を求め、田中元首相を逮捕に追い込むなど、「クリーン三木」をいかんなく発揮した。

財界が反対する独占禁止法の強化にも挑んだ。

安全保障では、ハト派の立場を貫いた。1971年に三木内閣が決定した防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠は、中曽根内閣が1987年度予算で枠を突破するまで10年余りの間、防衛費の歯止めとなった。

戦前の軍国主義の全盛時代、日米不戦を訴えた。 戦時中の1942年の国政選挙では、大政翼賛会の非推薦で立候補。軍部ににらまれ、厳しい弾圧を受けながらも、当選を果たした。
鳩山一郎

1954年12月10日~
1956年12月23日
ソ連との復交を求めてモスクワに赴き、日ソ共同宣言に調印。国交を復活させた。 その後、国連加盟も実現させた。

自由党と民主党を合併し、自由民主党を結成。自ら初代総裁に就任した。単一保守党の自民党が安定多数を占め、社会党と対立する「55年体制」を築いた。

吉田ワンマンのあと待望の首相に就任。6年間の吉田長期政権にうんざりしていた国民に歓迎された。 ただ、首相に就任したときには既に健康問題を抱えており、 本来の能力を十分に発揮できなかったとされる。

戦時中も国会議員だったが、軍部独裁には抵抗していた。
安倍晋三

2006年9月26日~
2007年9月26日

2012年12月26日~
2020年9月
歴代最長となる長期政権を達成した。 それまで首相が短期間でころころ交代するという日本政治の流れを断ち切った。 国家統治の安定性や一貫性を取り戻した。

憲法9条の解釈を強引に変更し、集団的自衛権の行使を可能にするという、安全保障政策の大転換を行った。 直前の民主党政権で弱まった日米同盟を再び強固なものにした。

大胆な金融緩和によって円安と株高を演出した。 それ以外の経済政策は、おおむねキャッチフレーズ先行型となり、中身のある改革が十分に実行できなかった。 薄っぺらい経済産業省の官僚たちを重宝しすぎたとの指摘もある。 経済界への賃上げ要請や、役所主導による投資ファンド設立など、やや時代錯誤な政策も目立った。

その一方で、アメリカ抜きでの「環太平洋パートナーシップ協定」(TPP)や、欧州との「日EU経済連携協定」など、自由貿易の促進に成果をあげた。

国政選挙で何度も圧勝。 インターネットの普及を背景に、右翼的風潮が日本でも優勢となったことが、追い風となった。 2010年代は世界的に経済が堅調だったという幸運も重なった。 おおむね高めで推移した支持率を背景に、政権中枢を自らの側近で固めたうえで、役所の重要な人事権を首相官邸に集約。省庁やマスコミをおとなしくさせるほどの強固な権力基盤を築いた。

2度にわたり首相に就任したが、1度目は短命(1年)で終わった。 このときは、閣僚の不祥事が続いて選挙で大敗。病気を理由に突然辞任を表明した。 多くの人に「もう政治家として終わった」と思われたが、政界全般の人材不足もあって、再び浮上した。

2020年、コロナウイルス対策をめぐり支持率が急落。長期の激務で体調を崩し、辞任した。
岸信介

1957年2月25日~
1960年7月19日
親米路線を明確にし、日米安保改定に尽力した。 「反共産主義」を前面に掲げ、 前任の首相たち(鳩山一郎、石橋湛山)のソ連、中国への接近路線を修正した。 親米路線は、その後の首相に引き継がれ、 戦後日本の安定の基盤となった。

戦前、有力な商工官僚としてファシズム国家の建設を主導した一人である。 軍部と協力して「国家統制経済」の制度化に邁進した。 満州でも統制経済を指揮した。 また、日米開戦に踏み切った東条内閣の閣僚でもあった。 敗戦後、A級戦犯として拘置所に入った。

吉田、鳩山、石橋ら戦後歴代首相は、いずれも太平洋戦争に批判的だった。 しかし、岸は違っていた。 戦後も全体主義的な思考を引きずっていたと批判されている。

政治手法も強権的だった。 警察官による国民への取り締まり権限を強化する警職法改正を突如、提案した。 だが、自民党内の反発で廃案に追い込まれた。

その一方で、 最低賃金法や国民年金法を成立させるなど、弱者保護的な社会政策にも力を入れた。
10 田中角栄

1972年7月7日~
1974年12月9日
中国との国交正常化を実現した。(同時に、台湾とは断交した)

全国の地方を工業化する「日本列島改造」を掲げ、 公共投資を拡大。 道路や鉄道網の整備が進んだ。 その一方で、地価高騰とインフレを招いた。

日本の国土を「開発」するという点において、 党幹事長などの時代を含め、 後世に大きな影響を与えた。

金で政治を動かす「金権政治」「利益誘導政治」の風土を強めた。 退任後に汚職で逮捕され、有罪判決を受けた。

【参考】
歴代首相物語」(編:御厨貴)
歴代首相 (知れば知るほど) 」(小林弘忠・著)



歴代首相の人気ランキング(朝日新聞のアンケート調査)

2009年9月

順位 名前 票数 略歴、解説
田中角栄 780票 愛称は「角さん」。「目白の闇将軍」とも呼ばれた。「日本列島改造論」を唱えたが、金脈問題で退陣(1972年7月~1974年12月)
吉田茂 717票 葉巻を好んだ「和製チャーチル」。サンフランシスコ講和条約に調印。議会で「バカヤロー」発言(1946年5月~1947年5月、1948年10月~1954年12月)
小泉純一郎 576票 派閥に染まらぬ「変人」。スローガンは「自民党をぶっ壊す」。2005年の総選挙では「抵抗勢力」に刺客を送った(2001年4月~2006年9月)
三木武夫 447票 金権政治や政党政治の浄化を訴え、「クリーン三木」と呼ばれた。激しい倒閣運動「三木おろし」で総辞職に追い込まれた(1974年12月~1976年12月)
佐藤栄作 279票 情報収集力で「早耳の佐藤」、人心掌握術で「人事の佐藤」と言われた。沖縄返還を実現。連続在任7年8カ月は最長記録(1964年11月~1972年7月)
池田勇人 232票 所得倍増論を唱え、高度経済成長政策を推進。がんのため東京五輪の直後に辞任(1960年7月~1964年11月)
中曽根康弘 214票 国鉄、電電公社などを民営化。米国との関係を強めたが、「日本は浮沈空母」発言も(1982年11月~1987年11月)
村山富市 209票 社会党委員長を務め、自社さ連立政権で首相の座に。日米安保、自衛隊を容認(1994年6月~1996年1月)
石橋湛山 東洋経済新報社の元社長。言論人から政界へ入り、誰に対しても物おじしない発言をした。 病気のため、わずか71日で引退を表明した。(1956年12月~1957年2月)
10 細川護煕 138票 日本新党の党首を務め、非自民連立政権で首相に。旧熊本藩主細川家の子孫(1993年8月~1994年4月)

最も評価していない首相(朝日新聞のアンケート投票)

順位 名前 票数
宇野宗佑 1195票
麻生太郎 714票
森喜朗 555票
安倍晋三 547票
小泉純一郎 542票
福田康夫 218票
村山富市 98票
田中角栄 76票
細川護煕 69票
10 岸信介 57票

<調査の概要>
朝日新聞の無料会員サービス「アスパラクラブ」のウェブサイトで2009年8月の総選挙前にアンケートを実施。戦後の歴代首相30人の中で「最も評価している人」「最も評価していない人」(いずれも単一回答)を尋ね、4343人から回答を得た。次期首相に期待する「資質」についても尋ねたところ、(1)強いリーダーシップ(2)しっかりした国家観(3)経済・財政の手腕(4)誠実な人柄(5)弱者を救う姿勢--の順だった。


読売新聞のネットモニター調査(2006年)

2006年9月

戦後の歴代首相の中で誰を評価するか(複数回答)

順位 首相 評価
吉田茂 44%
小泉純一郎 41%
田中角栄 36%
中曽根康弘 30%
佐藤栄作 25%
池田勇人 18%
岸信介 13%
三木武夫 12%

「角栄」抑えて「小泉」2位

読売新聞社の「ポスト小泉」に関する第3回ネットモニター調査で、戦後の歴代首相の中で誰を評価するか(複数回答)を聞いたところ、戦後の混乱期にリーダーシップを発揮した「吉田茂」が44%で最も多かった。現職の「小泉純一郎」が41%で2位。3位はロッキード事件で逮捕されたものの、実行力と庶民性で人気の高い「田中角栄」の36%だった。

以下、「中曽根康弘」30%、「佐藤栄作」25%、「池田勇人」18%、「岸信介」13%、「三木武夫」12%などの順。

吉田元首相については、在任中に日本の進路として選択した「軽武装・経済重視」路線が現在の日本にとって良かったかを聞いたところ、72%が「そう思う」と答えており、こうした点が高い評価につながったと見られる。性別や年齢別に見ると、男性や高年齢層で「吉田茂」がトップ。一方、女性や若年層は小泉首相を挙げる人が最も多かった。

田中元首相の存在が現在の日本にとって、プラス面とマイナス面のどちらが多かったかでは、「プラス面」が53%で、「マイナス面」39%を上回った。プラス面を挙げた人を支持政党別で見ると、民主支持層では59%で、自民支持層の54%を上回った。

〈ネットモニター調査〉 インターネットを利用してモニターを対象に行う調査。性別、年齢などを考慮して1000人に委嘱、新内閣発足まで継続する。川上和久・明治学院大法学部長の協力を得た。第3回調査は2006年8月4~8日に実施、回答率は91%。

松野頼三元衆院議員が選んだ20世紀の内閣ランキング

2000年12月

順位 首相 主な業績など
吉田茂 講和条約と憲法作成
鳩山一郎 日ソ国交回復
佐藤栄作 沖縄返還
岸信介 日米安保改定
細川護煕 8党派の連立政権
三木武夫 田中後の政界刷新
池田勇人 経済立国の土台つくる
田中角栄 日本列島改造
森喜朗 小渕病死後の政権
10 村山富市 47年ぶり社会党政権

戦後の内閣・吉田茂首相がダントツ

20世紀の国内政治について、永田町と半世紀近くかかわってきた松野頼三元衆院議員(83)に戦後の歴代内閣の仕事ぶりを振り返ってもらった。松野氏は日本国憲法を作るなど戦後の日本を再建した吉田内閣を1位に挙げた。また、昭和から平成と時代の移り変わりにつれて「頂点に立つ政治家がだんだん小粒になっている」と指摘した。

吉田茂氏は1946年(昭和21年)の第1次吉田内閣で日本国憲法を公布してから、1953年の第5次まで通算7年2カ月も首相を務めた。1963年に政界を引退した後も「弟子」の池田勇人、佐藤栄作両氏らを通じて、政界に隠然たる力を持ち続けた。

その吉田内閣を「ダントツの存在感」と評した。「米国占領下で国内政策を着実に行い、サンフランシスコ平和条約を締結、日本国憲法も作った。敗戦日本の再建に尽くした」と最大級の評価だ。

吉田氏は人物としても、非常に優れていたという。「頑固一徹で信念に生きた人。私心がまったくない人だった。私心がないから、国民の人気なんか気にしないで、自分の描いた国家の青写真を実行に移せた。結果からみると、彼の志向した日本に間違いはなかった」と言い切った。

吉田氏とともに戦後日本の土台を築いたのが鳩山一郎氏。鳩山内閣は、日本と旧ソ連の国交を回復し、日本民主党と自由党の保守合同を成し遂げた「保守安定政権の開祖」で、1955年11月に自由民主党を結成した。「この2人は絶対的な存在。後に総理となった佐藤栄作も岸信介も、2人の基盤の上に業績を重ねただけ」と話す。歴代内閣ベスト10をピックアップしていくと、ほとんどが時系列通りになった。「時代背景も関係するが、政治家が小粒になってきたことも理由に挙げられるのではないか」と解説する。

ところで、9位にランクした森喜朗内閣をどう評価するのだろうか。「小渕(恵三前首相)が病死した後、党の総裁選挙をしなかったことが、政権誕生に疑惑を生んでずっと尾を引いている。これが森政権最大の失点だ」とピシャリ。一方で、10%台の低支持率にもかかわらず「加藤紘一の乱を鎮圧し内閣不信任案を否決した以上、2001年9月の任期満了まではいける。2001年1月や3月の退陣はありえない。今回の改造内閣閣僚の顔触れをみても明らか」と言い切った。唯一、2001年7月の参院選挙で敗北した時だけが、政権交代につながるという。

竹下登氏や中曽根康弘氏はランクインしていないが「竹下の功績は消費税の導入ぐらい。それで入れるには実績が小さすぎる。中曽根も何もしていないだろう。風見鶏みたいにふわふわして、長期政権だったがランクインには及ばない」と話した。

21世紀の展望と課題

中心になる政治家は、自民党では小泉純一郎元厚相、亀井静香政調会長、麻生太郎元経企庁長官の3人。民主党では鳩山由紀夫代表と菅直人幹事長の2人という。

小泉元厚相については「吉田に似て、いちずな信念を持っている。私心でなく、郵政3事業の民営化など政策のために政治をやっている」と評価。鳩山代表も「意思表示がはっきりしておりシンが強い。1つの風格を持っている」として、この2人を中心に国政が動くとみている。

また、21世紀は憲法問題が焦点になるという。憲法をどう評価するかによって「人脈と政策の遠近が政党を超えて混在している現状が、大きく動く可能性がある」。

加藤氏については、政界再編が起こらず、今の政党の枠組みである限り浮上するのは難しいとみている。

松野頼三(まつの・らいぞう)

1917年(大正6年)2月12日、熊本県生まれ。83歳。慶大法学部卒。吉田茂元首相の秘書官を務め、1947年(昭和22年)総選挙で初当選。通算15期。総理府総務長官、労相、防衛庁長官、農相を歴任。自民党役員としては政調会長、総務会長をつとめた。1990年(平成2年)に引退後も、政界の参謀・ブレーン役を演じる。民主党の松野頼久衆院議員は長男。